宝の持ち腐れ→役に立つ物を持っていながら、使用せずに放っておくこと。
猫に小判→どんな立派なものでも、価値がわからない者にとっては、何の値打ちもないものであるというたとえ。
今日はこの二つの諺が頭の中をぐるぐるしております。
厳密には今日だけではないです。
長女のやり残した問題集があります。
新品同様、綺麗な状態です。今、問題集を作っている会社のホームページを見てみると
1科目1カ月約2000円。
つまりこの写真に写っている分だけで18000円もしたのか……
これをそのまま捨てれば18000円を捨てることと同じ……。
悲し~~い。切ない……。
次女、やらないかな……。
次女「姉がくれた問題集は全部 難しすぎなんだよね。」「いらな~い」「自分ができなかったのを私にくれるなんて┐(´д`)┌ヤレヤレ」
これは置いておいても宝の持ち腐れになるのが分かっている。
私がつきっきりで一緒にやらないかぎり、この問題集に取り組むことはないだろう。
学校の宿題だけで息切れしているような次女に使いこなせないだろう。
この問題集、なんと一冊一冊会員の名前と会員番号が印刷されています。
通信教材だからブックオフでも売れないだろう。
メルカリは5年前の物だしどうなんだろう……。
「面倒くさい」と感じてしまう。
やはり
古紙の日に出すか……。
あーもったいない。
心苦しい。
でも宝の持ち腐れ状態で部屋にあるのも苦しい。
どちらの苦しみの方が大きいか。
それは部屋にある苦しみの方が私には大きいだろう。
常に「使わないともったいない。 次女と勉強するか……それもエネルギーがいる、無理だ、もっと初歩的な問題じゃないと疲れる→できない。宝の持ち腐れだ」
こんなことが頭の中でぐるぐるして、確実にそのことがストレスになっている。
捨ててしまおう。
長女は第一希望の大学に入れた。
購入目的は達成済みと捉えればよいではないか。
次女にあげても猫に小判。
よし 捨てよう!
片付けってこうやっていちいち頭を使うんですよね。
自分にとって要るのか要らないのか。
でも、これもトレーニングしていると判断のスピードが速くなります。
使わないと勿体ない
今日も使わなかった
そんな風に頭の片隅でストレスになっている方こそが勿体ない。
これからどうなりたいか
どう暮らしたいか
そのために今できることは何か
が鍵ですかね?