
子どものころ、傷ついた思い出ありますか?
大なり小なり誰でもきっと少しはありますよね。
私が自分で思い出せるといいますか、覚えている最初の大きなグサリときた経験は、親から「離婚したら、父と母 どちらについて行きたいか」を両親の前で聞かれたことです。
わずか齢4歳でです。
父と母が喧嘩をしているだけでも悲しい気持ちなのに、そんなことを聞かれるなんて……。
私はどちらも選べませんでしたよ。
自分の部屋に駆け上がり泣くしかできませんでした。
子どもの私にとっては多分、生命線を半分絶たれるような、身体と心を2つに引き裂かれるような思いでした。
父から謝られたことは覚えていますが、母から謝られたことは覚えていません。
謝られなかったのか、謝られたけど私が忘れたのか分かりません。
ただ40歳を過ぎても、その日の光景を覚えているのは結構トラウマなんですかね?
(母に当時のことを最近伝えたら、父に本気で怒っていることを伝えたかっただとかで……当時の私の気持ちなんて考えるゆとりがなかったのでしょうね。(^-^;)
そんな母の心理状況を4歳の私が知るわけがなく、親二人の前でそれを聞かれるということは、私が母を選べば父は私と暮らさなくてもいいんだな、私が父を選べば、母は私と暮らせなくてもいいということなんだな……
両親はどちらでもいいんだ……だから私に選ばせるんだ……
と自分の無価値感を感じたかもしれません。潜在意識に刻まれちゃったかもですよ、もう!。
2度とこんな辛い思いを味わいたくなくてなのか、小さな頃から私は頑張ってきたと思います。
両親から必要とされる存在になろうとしたかもしれません。
役に立つ子、迷惑をかけない子でいれば、
親から捨てられないと思ったかもしれません。ありのままの自分では価値がないと無意識のうちに感じたかもしれません。
子どもはメタ認知が未熟ですのであり得ます。
当時の気持ちは覚えていませんが、「役に立つ人になろう」「なるべく迷惑にならないようにしよう(^-^;」という気持ちが今までの人生で強く持っていました。自立心が強かったです。というか甘え下手? 私みたいな人を拗らせ自立女子というとか?
超就職氷河期時代に就職活動をしたのもあり、人から必要とされない辛さをも知っています。
無価値感があった【?】おかげでなのか、子どもの頃から役に立つ喜びを知ることができていました。
近所の自分より小さな子どもたちの安全を見守りながら遊ぶことで、ご近所さんたちから認めてもらえたり、「助かったありがとう」と言われたり……私の自信や他者への信頼を育めたのではないかと思います。周囲の人たちから沢山かわいがってもらえました。
そういう点では、どんどん自己肯定感が上がっていたかもしれません。「必要とされる人になってやろうじゃないの!」と、やる気のあるタイプで元から肯定感が高いのかもしれません。
でも、もしかしたらグサリときた経験から、自分の無価値感やら罪悪感がベースで自己肯定感が低い状態だったからこそ、上げることを頑張っていたのかもしれません。
上記のたった一度の傷つきだけではなく、
兄弟間で扱いが異なり「お姉ちゃんだから」と我慢させられたり、母に意見を伝えても受け止めて貰えなかったり、父親の愚痴を母からよく聞いたり……もう書き出したら止まらないですよ……当時の自分にとって残念な経験は(笑)。
そんな環境で育ったので、自己肯定感が低いかもしれません。
でも、そんな環境でも腐らずに沢山の経験、行動をできている自分は自己肯定感高いのかもしれません。
結局 肯定感が高いのか低いのか、どちらなのか分かりません。
正直、どちらでもよいです。(笑)
人間はみんな強そうで弱かったり、弱そうで強かったりするでしょう?。
きっと、その時々で上がったり下がったりするでしょう。
謎のままでいいと思います。
わからなくていい。
大事なのは自己批判的にならないことかと思います。
私は最近「役にたってなんぼ」みたいな幼い頃からの考え方のクセを止めたのです。
役に立っても立たなくてもどちらでもいい。
役に立つことをしてもしなくてもどちらでもいい。
と思うようにしました。
たとえ何もしなくても、私は自分に価値があると思うようにしています。
あの有名なタイトルの本をまだ読んでいませんが、「嫌われる勇気」みたいな感じでしょうか。
別に誰かから好かれなくても、自分で自分をまあまあ好きならいい!ってところでしょうか。
機能不全家族育ちで病んでもおかしくない状況で?、明るく楽しく過ごせてきたんだから自分で自分をよしとします。
するとですね、
とても 人生が気楽になりました。
今まで役に立たなきゃ精神のおかげで、困った人を引き寄せていたのではないかと思うほどです。役に立ちたいんでしょ? と寄って来られていた気さえします(笑)。
困った人が寄ってこなくなると自分のことに集中しやすいです。
もちろん役立つ喜びはもう脳や身体にインプットされているはずで、ゼロにはなりません。はい、なり得ません。仕事を通して皆さんの役に立ちたいです。これは自分の無価値感からくる愛されたい欲求ではなく、自己実現の欲求です。必要です。
自己犠牲をしてまでも役に立とうとしてしまっていた過去があるのは(自分では自己犠牲と思っていなかった)、役に立ちたいというよりかは親から自分の望むカタチで愛されたいという欲求、満たされていない部分を満たそうとしていたのかもしれないです。子どもの私にとって親がいなくなるっていうのは生存の欲求が満たされないような感じだったのでしょう。
自分では自己犠牲をしているつもりはなくても、多少自己犠牲をしてまで人に尽くしてしまうと舐められるんです。
社会に出ても軽く見る人が出てくるんです。
サービス残業を当たり前に頼んできたり……。
自分で自分を大切にしていないと、周りの人も大切にしてくれなくなるんです。
学校ではいじめ、職場ではパワハラ、夫婦ではモラハラを受けやすくなってしまうんです。
いろいろ我慢しなければならない状況で過ごしていると、我慢のメモリが狂うのです。
他の多くの人からすれば、「えっ?」と感じることでも、幸か不幸か大した事ないって感じがちなのです。
そして、親だろうが夫だろうが、やさしさに甘えて調子をこく人になってしまうこともあるのです。
なので、もう私は夢や目標を叶えるための我慢以外はなるべくしないように意識しています。
かつての私のように傷つき体験などから得た誤った思い込みのように、あなたも勝手にこうあるべきという考え方をしていませんか?
人それぞれ信念、ポリシー、哲学……ありますし、正しいとか間違いとかに分けられるものでもないです。もし今なんとなく生きづらさを抱えていたり苦しかったりしているのであれば、自分の当たり前をたまには疑ってみたり、本当にそうかな?と考えてみることで新たな発見があるかもしれません。
幼少期の傷つき体験が、現在の人間関係に影響していることは少なくないです。
ゆるめてみると楽になるかと思います。
例えばですね、
片付けは本来は自分でできて当たり前、なのにできない自分はダメな人と勝手に思い込んでいる。できて当たり前のことができていなくて辛い。→ 本当にそうかな?できて当たり前かな? 学校でも教わらないし当たり前じゃなくない? 主婦向けの雑誌に毎月 片付けのことが書かれているのはなぜ? みんなできずに困ってるからじゃない? プロに頼んでもいいんじゃない?
と自分の中の当たり前(特に自己批判的な部分)を疑うと、このような考えに繋がりませんか?
人はみんな一人一人全員それぞれ素晴らしい。
自分では当たり前と思っていることを本当にそうかな?と考えることを
私は大切にしています。
そんな風に考えられるのは、片付けを通して自分を見つめたり、私自身にゆとりがあるから考える時間があるのではないかな?とも思います。
日常に追われているだけだと考えるゆとりすらないはず。
片付けはゆとりを作ってくれます。
空間だけではなく、心にも(^^♪。
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